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教員 採用のケア

ポパーならば、さしずめ境界線の基準とでも呼んだと思われる概念を規定するために、われわれはまず境界線で囲い込まれるものは何であるかを考えなければならない。 この目的のために私は、体制(レジーム)という概念を持ち出したいと思う。
体制とは、現実に十分共存しうる程度の団結力をもった一群の社会条件といってよい。 ただし、私が現在使っている仮説に従えば、この社会関係の中にはなんらかの欠陥ないし欠落があるため、つねに自滅の種を内包しているといえる。

体制とは漠然とした言葉であるが、それでも有用ではある。 この言葉は、非常に広範囲な状況に適用できるからだ。
個々の国家の中で支配的な政治体制を指すこともできるし、それら個々の体制をひつくるめて、冷戦というようなより大きい体制を意味することもできる。 また団体組織の存亡の中にも、個人の生活の中にも体制は存在しうる。
たとえば結婚もひとつの体制と考えることもできるのだ。 体制には固定された境界線はない。
それぞれの体制は互いに重なり合ったり引き継ぎ合ったりしている。 体制は、完全に閉鎖されたシステムである機械とは異なる。
体制は本質的には開かれたシステムの中へ、ある種の囲い込みを持ち込もうとする試みとみることができよう。 その囲い込みとは、ある特定の関係の中でそれとわかる程度の長期にわたって、広く通用してきた一群の規則といっていい。
体制とは統治(ルーリング)と規則(ルール)に意を注ぐものである。 体制にはふたつの側面があり、ひとつは人々のものの見方、もうひとつは実際のものごとの動きである。

これらふたつの側面は相互作用的に影響し合う。 ものの見方が現実の世界に影響を与えると同時に、その逆もありうる。
だが、両者が完全に一致する点を見いだすことはない。 四十年ほど前の一九六○年代前半のこと、私は歴史的な変化に対するさまざまな受け止め方をもとに、社会いまでは私はこれを体制と言い換えたいの理論的なモデルを構築した。
私はまず、次の三つを区別することにした。 すなわち、変化の可能性を無視し、世の中の現状を唯一の可能性であるとする、ものの考え方としては伝統的なモデル、変化の可能性をとことん追求する批判的な考え方のモデル、および不確定性を認めることのできない教条的なモデルである。
つぎに私は、それぞれ違った社会組織がこの三つの考え方のモデルに対応するものとして、それぞれの社会を有機的社会、開かれた社会、閉ざされた社会と命名した。 言うまでもなく、三つの考え方のモデルが三つの社会組織と完全に符合するわけではない。
開かれた社会にも閉ざされた社会にも、現実と思考の間の関係には改善すべき点があり、改善の目標が相手の社会にしか見いだせないということもありうる。 閉ざされた社会には開かれた社会にはない確実性と永続性があり、開かれた社会には閉ざされた社会では個人に許されていない自由がある。
社会組織のこうしたふたつの原則が相対立してきたのはこのためである。 開かれた社会はわれわれが過ちを犯すという誤謬性の原則を認めているが、閉ざされた社会側はそれを否定する。
どちらが正しいかを軽々に決めることはできない。 われわれは結果によって判断するほかないが、思いもかけない結果が出現することもしばしばなので、結果という判断基準にも全幅の信頼をおくことはできない。

どちらを選ぶかは厳しい選択であるが、私は迷うことなく開かれた社会の方を選択した(注3)。 私は一九七九年に「オープン・ソサエティ・ファンド」という財団を設立したとき、うたいあげた設立目的は、閉ざされた社会の開放に手を貸し、開かれた社会のさらなる活性化を促すとともに、批判的なものの見方を育成すること、であった。
この目的にそった最初の試みは南アフリカで失敗に終わったが、そのあと私が重点をおいた地域は共産主義統治下の諸国、とりわけ私の故国であるハンガリーとなった。 私のやり方は単純であった。
すなわち、当局の監督または管理を受けていないすべての活動または団体は当局のお仕着せに代わるものを提供するのだから、これらを支援することによって教条主義の独占に穴をあけよう、というものだった。 一九八四年にハンガリーの科学アカデミーと合弁で設立した私のハンガリーの財団は、市民社会の支援者として活動した。
この財団は市民社会を支援しただけでなく、市民社会も財団を支持してくれた。 おかげで財団は、よく同種の財団が悩まされる予測できない難問の多くに煩わされないですんだ。
財団の成功に気をよくして、私はっねづね慈善事業に批判的であったにもかかわらず、一転して慈善事業家に変身してしまった。 だから、ソヴィエト帝国が崩壊し始めると、私はたちまちその真っただ中に飛び込んでいった。
その活動のなかで私は、革命期には他の時期には思いもよらない大きな仕事ができるのだ、ということを実感した。 例のブーム・バストの理論を駆使することによって、私はだれよりも事態の成り行きをよく理解できたと感じたし、私の目的意識もはっきりしていたうえ、なによりも私には資金的な裏付けが十分にあった。
その意味で、私は他のだれよりも仕事をする立場になったわけで、努力を惜しむいとまはなかった。 私はわずか数年のうちに、財団を百倍もの規模に育て上げた。
私が自分の概念上の枠組みに欠陥があることを初めて発見したのは、実はソヴィエト崩壊の過程のさなかにおいてだった。 それまで私の理論は開かれた社会と閉ざされた社会とを一者択一の関係にあると考えていた。

社会組織に対するふたつの相容れない思想が死闘を演じていた冷戦の時代には、竹を割ったような二分法も効果があったかもしれないが、冷戦後に支配的となった状況のもとでは、それは通用しない。 閉ざされた社会の崩壊がそのまま自動的に開かれた社会の確立に道を開くものではないこと、むしろ逆に権威の失墜を招いて社会の分解につながることを、そのとき私は思い知らされたのである。
全体主義国家と同様に、弱体国家も開かれた社会の脅威となりうるのだ(注4)。 開かれた社会の概念は閉ざされた社会からの二者択一という一面からの脅威ではなく、複数の面から脅威にさらされているのである。
一九九○年代に資本主義システムがますますグローバル化してきたことで、この結論の正しさを確認した。 そこで私は骨の折れる再検討の仕事に取り組む必要性を痛感し、その再検討の結果がここに提示する枠組みである。
開かれた社会は現在、非常に危険な中間地帯に立たされており、そのため閉ざされた社会を強制するものから、社会の解体につながりかねないその他いろいろな信条などまで、ありとあらゆる教条主義的主張に脅かされている、と私は考える。 開かれた社会はほぼ均衡に近い状況の代表例である。
これに代わるのは閉ざされた社会の静的不均衡だけではなく、動的不均衡もそうである。 私は以前から、開かれた社会にも欠陥があり、それによって崩壊することもありうると考えていたが、その崩壊のかなたにあるものは閉ざされた社会以外にありえないと信じていた。
動的な不均衡の時代がいつまでも続くとは思えなかったのだ。 いや、もっと正確にいえば、社会が混乱の縁に立ちながら、実際にひつくり返らずに存続できるとは考えてもみなかったのである。

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